パンズ・ラビリンス(映画) 感想※ネタバレ有
はじめに
どんなお話か説明している部分がありますが、これはあくまで『私はそう感じたという感想』であり、実際には異なる可能性があることはご了承ください。
ネタバレあります。
~総括~
オメーらにファンタジーがなにか教えてやると言わんばかりの正統派ファンタジーですね。
ファンタジーを寄る辺に生きたことがある人しか書けない物語かもしれない。そう思うほどの個性を感じる素敵な作品でした。
感動しましたノベライズ買います。
現実におけるファンタジーの役割を描いた物語
ファンタジーは、昔から子供にうまく現実を教える(教わる)ための手段として使われてきました。
たとえば、子供に「夜早く寝なさい」といっても、子供は寝ません。
子供は、夜早く寝たほうがいいです。
うまく体が成長しますし、頭がすっきりして、元気に動けます。
さらにいえば、危険な夜の街に攫われません。
しかし、この事実は、子供にとって想像することすら難しい未知のことであり、同時に現実として受け入れるには早すぎる(と、大人が判断した)ことです。
頭ごなしに「早く寝なさい」と言っても受け入れて貰えませんし、かといって懇切丁寧にすべて教えることもできない。
そんなとき、大人たちはファンタジーを語ってきました。
「早く寝ないとオバケが攫いに来るよ」
子供は、オバケというファンタジーをとおして「夜早く寝ないことの危険さ」を体験します。
そして、怖い夜を眠ってやり過ごし、起きたときは健やかな気分・・・「夜早く寝ることの利益」を実感します。
(子供も、オバケを心から信じてはいないでしょう。
しかし、話を聞いて湧き出る恐怖は本物で、早く寝るきっかけとしては十分なのです。)
このように、うまく現実を教える(教わる)ための手段として、ファンタジーは機能してきました。
人々は、実戦的なノウハウをファンタジーから、うまく受け取ってきたのです。
では、こうして現実を教えてくれる人が誰もいないとき、子供はどうするのでしょうか?
パンズ・ラビリンスの主人公は、自らファンタジーを紡ぐことを選びました。
頼る者のいない現実での孤軍奮闘
パンズ・ラビリンスの主人公は、ほぼ庇護なき状況に置かれています。
優しかった父親は既に死亡。住み慣れた家からも離れ、臨月で体の弱った母親といっしょに向かった先は森深くの基地。
新しい父親は、自分や母親をモノのようにしか考えていない。
周囲は独裁によってピリピリ。
うろつく兵士は怖い。優しくしてくれるお手伝いさんはスパイ。
夢も希望もないとはこのことですが、主人公はこの現実をどうにかするための試行錯誤として、一冊の本をもとにファンタジーを紡ぎだします。
『自分は、魔法国の王女。3つの試練を終えれば、王国に戻れる』
このファンタジーは、過酷な現実に耐えるための嘘であり、過酷さに負けて理想を忘れてしまわないための備忘録です。
魔法国という理想を詰め込んだ世界を作ることで、このさき現実がどうなっても、大切なことを思いだせるようにしたわけですね。
主人公は、こうして試練と称して森(や自室)で空想とともに遊び、学ぶことで、周囲のピリピリした空気に押しつぶされることなく、幸せに生きようとしました。
カエルなんざ怖くねえ!ハ〇ワタから鍵ぶちとってやらァァァァァ
母親の容態が悪化する
新しい生活と折り合ったと思った矢先、母親の容態が悪化します。
臨月なのに山奥まで移動させる無茶をさせ、ストレスがかかる状況が続いたのですから、これは当然のことです。
なんとかしたいのですが、医者でない主人公にはどうしようもありません。
母親の危機に何もできない無力感をごまかすために、主人公は新しい空想を生み出します。
自分が試練を頑張っているので、牧神<パン>が病気に効く植物マンドレイクをくれた、というものです。
このマンドレイク、なんと実在するので、本当に空想か疑わしくなるシーンですが、そこら辺から拾ってきた変な植物、と仮定します。
医者がひとまず処置をしたこと、娘である主人公が傍で支えたこともあって、母親はひとまず回復します。
とうとう試練に失敗する
王女になる3つの試練の最中、とうとう主人公は失敗してしまいます。
「食べてはいけないと言われていたものを食べてしまった」失敗ですが、どう考えても失敗する場面ではありません。
・いっしょに置いてある食べ物がゲテモノ
・お目付け役が必死に止めている
・いっしょに食事をしているのは、化け物
むしろなんで食べようと思った?と言わんばかりの状況です。
しかし、ここで思い出してください。これはファンタジーです。
著者は主人公です。
成功しようと思えばいくらでも可能です。
これはわざと失敗したのでしょう。
試練を超えて、嫌な奴がいる場所で、どうにか生活できるぐらいにはなりました。
しかし、嫌な現実を丸ごと消す方法は、見つかっていません。
主人公にとってファンタジーは、過酷さと戦うための力です。
母親も自分も、いまだ過酷な状況にあります。
「もう魔法の国に行く必要はない」と思うぐらい幸せでなければ、魔法の国には行けないのです。
新しい父親の暴力に晒される
仲良くしていたお手伝いさんが、ゲリラのスパイであることが、新しい父親にバレます。
同時に、主人公がお手伝いさんの正体を隠していたことも露見し、主人公は冷たく罰されます。
マンドレイクも見つかり焼き払われ、ストレスがかかったのか母親の容態も悪化。
夢も希望もないとはこのこと。
結局、母親は死んでしまいます。
新しい父親がどのような存在か、自分や母親がどのような立場なのか、このとき本当の意味で理解したのでしょう。
モノのように片付けられてしまった母親。自分や弟(生まれてきた赤子)も、いつか母親のように始末されるか、それより酷い目にあうだろう。
都合の良い敗者復活戦
絶望する主人公の前に、牧神<パン>が現れ、告げます。
「赤子を連れ出せば、魔法の国へ行けます」
あれ?このあいだ「お前は王女ではない!二度と会うことはないでしょう」とか言ってましたよね?
しかし、いまは非常事態です。
このぐらいの後出し設定は許されるでしょう。プロでもやってる。
「あなたは一度失敗しています。何も聞かずに言われた通りにすることが条件です」
ごちゃごちゃ考えている場合ではありません。
外ではゲリラが、中では父親が、自分の住んでいるこの家で、戦いを始めようとしている。
弟といっしょに、いま、ここから、逃げるのです。
主人公は幸せだったのか?
結局のところ、主人公の逃避行は失敗します。
主人公は父親に殺され、父親はゲリラに殺され、弟はゲリラに拾われます。
悲劇といえる結末です。
しかし、主人公は、不幸を押し付けてくる周囲に抗い、自分が大切だと思うことを守りきました。
「このお話で一番幸せだったのは誰か?」と聞いたら、それは決めることのできない問題ではありますが、私はやはり、主人公の顔が浮かぶのです。